2011年8月20日土曜日

翼をください #3


冬が好きだ。
小雪は寒くなってくるとそう思うようになる。
吐く息が白いのが何故か素敵で、じんじんと痛む指先が愛しい。他にも、ミント色の手袋やストライプのマフラーを、タンスからひっぱり出す時なんて、顔がにやけてしまうほどだ。
だから、天使が降りてきそうな冬が好きだった。小雪はそう思っている。
無論、それらの理由もあるのだが、本当の理由は冬になるとなかなか布団から出てこない智之を起こしに行けるからなのだ。
夏だとこうはいかない。あいつは夏が大好きだから、いつだって先に学校へ行ってしまう。
小雪は今、ベッドの前にいる。
目の前にはモゾモゾと動く布団の固まり。枕側には髪の毛が見え、白いパイナップルみたいにふくらんでいる。起こしたことは起こしたのだが、なかなか布団の中から出てこないのだ。
んふふと小雪が笑った。
そして、手術前の医者みたいな面持ちで布団をひっつかんだ。にぃっと笑った口のまま息を吸う。
これこそ対布団篭城最終奥義。
「おっきろー!」
「うわああぁぁぁぁぁぁ!」
ガバッと布団を取り上げる。
中には寝巻き姿の智之が小さくなっていた。
「てんめえ……っ! 小雪ぃ! 寒いだろーが!」
「さっさと起きない方が悪いっ! 時計を見なさいよ。もう八時なのよ?」
毎朝持ち主さえ知らないうちに止められる目覚まし時計は、すでに七時五十八分を指していた。
指差された時計を見て、智之は動きを止める。
「……密かにやばくない?」
硬直もそのままに、寝巻きのまま汗をたらす。
少女はこめかみに青筋を浮かべながら言い放った。
「だと思うんなら、さっさとしなさい!」
ばこっと近くにあったティッシュ箱こそ、未だに寝ぼけ眼の智之の目覚ましになった。
「だーから言ったじゃない!」
「うるせー! 俺だってこうなりたくてこうなったわけじゃない!」
白い街を走る影二つ。……言うまでも無く小雪と智之である。結局間に合いそうもないのでこうやって走る事になってしまったのだ。
しかし……ホームルームは八時半から。どう考えても間に合わない。準備だかトイレとかで十五分たっている上、ここは商店街だから……走っても二十分はかかる。
「おいこら小みに」
「なによ!?」
「なぁに笑ってんだ、気色悪い」
「うっさい!」
こっちの気持ちも知らないで!
そのうち足が悲鳴を上げ始めた。智之はともかく、小雪は朝から走って大丈夫なほど体力はないのだ。
「……っふ……っふ……」
「はぁはぁ……はぁ……もう駄目……」
「走れ小みに!」
「みにって言うな!」
しかし二人も若いとはいえ疲れは来る。最初に小雪が、そしてもうしばらくしてから智之が。疾走から競歩……競歩から散歩に変わるまでそう時間はかからなかった。
そのうちゆっくりと歩いていくようになる。息が整い、二人に風景を見る余裕が生まれた。
「…………」
ふと、智之がこちらを見ていることに気付いた。
「なによ」
「お前未だに天使なんか好きなのかー? ダッセ」
彼は小雪の鞄についた天使のキーホルダーを見ていたのだ。
「うっさいわよ。アンタなんかに天使の素晴らしさなんて、分かるもんですか」
「あーあー分かんねえな。第一、天使って神様のパシリだろー? 余計ダサいじゃん」
「うっさい!」
小雪の反応に智之はフフンと鼻で笑いながら、続けた。
「知ってるか? 人間に翼があっても、そのための筋肉がないから飛べやしないらしいぜ? ましてや天使だなんてな。非科学的もいいとこだぜ」
かっかっか、と笑う智之。しかし小雪はため息をつき、軽蔑した目で智之を見た。
「……あんだよ?」
「ふん。ガキよねー智之は」
「はぁ?」
「翼のすばらしさを分からないようじゃ、まだまだだって言ってんのよ」
「わかるわきゃねーだろが。飛べなきゃしょーがねーだろ?」
「飛べるのも飛べないのも関係ないのよ。私は、飛べなくても翼が欲しいの!」
「……そんなに欲しいか? 翼」
「うん……大切なものを包み込めたらって、いつも思う」
「しょーじょ趣味」
「うっさい!」
二人はいつもどおり、笑いながら怒りながら歩いていく。
そろそろ商店街の店もシャッターを開け始める時間だ。顔見知りの店長が二人にあいさつをしてきた。
「なんだ、小雪ちゃんに智之くん、遅刻か?」
「そうなのよ、このバカユキがいつまでたっても起きないからさー」
「黙れ小みに!」
「なによー!」
「あははははは、まあ気をつけなさいな。たまにはいいかも知れないけどね?」
「そうかなぁ……?」
「いいっていいって。そのうち服も変えずに同伴登校って時も来るんでしょ?」
「……なにいってんのよ!」
「あははははははははは」
八百屋の店長は笑いながら店の奥へ去っていった。そうだった、私たちは遅刻してたんだ……。今更気付いたのだが、何故か悪気はない。罪悪感もない。少しだけどきどきがある。学校を遅刻しながら、霜の降りた商店街を歩いていくことがこんなに楽しいことだなんて想像さえしなかった。
「…………違うかな」
ぽつりと呟く。
「あ?」
「なんでもないわよ」
そう、今は言うべきではない。
まだ今は、この暖かい冬を味わっていたかった。
なんとか学校についた頃にはすでに1時間目が始まっていた。ぼけぼけコンビとして国語教師にも伝わっていたため、多少の冷やかしと訓告……というにも小さすぎる訓告で二人は授業に参加する事が出来た。
鞄から次々と教科書やノートを取り出す。その動作がなんと楽しいことだろう。朝、智之とゆっくり歩いただけでここまでなんでもないことが楽しいのだ。
右隣に座っていた茜が声をかけてきた。
「なに鼻歌なんか歌っちゃってんのよ」
「え? 歌ってた? 私?」
ぽそぽそと先生にばれない程度に会話が続く。
「もう思いっきり。智之くんと遅刻できたのがそんなにうれしかった?」
「…………ん」
「はっきり言いなさいよ。もうみんな知ってんのよ?」
「……そうだろうとは思ってたけどさ。茜でしょ? しゃべったの」
「何を言いますか。可愛いユキちゃんを想ってる私がどうしてそんなことを?」
「友人の恋ほど面白いものはないって今月のリズムに書いてあった」
リズムとは彼女が愛読している少女漫画雑誌だ。
「マンガを受け売りにするのはどうかと思うわ」
「うるさいわね」
「それで? コクった?」
一気に顔が赤くなる。冷たい教室内で、彼女の顔面だけが夏になった。
「……そっかぁ。まだかぁ」
「ああああ茜には関係ないでしょっ?」
「あんたがさっさとコクんないと他の子に持ってかれちゃうわよー?」
ドキ。
「なにをバカな。そんな物好きいないでしょ?」
「何を言うか物好きめ」
一瞬、心臓がはねたが、なるほど、ただの冗談か。
「冗談はほどほどにしてよね。全く」
さて、授業授業、と前を見た小雪に、追ってくる言葉。
「冗談じゃないわよ」
ズキリ。
今までとは違う、冷えた動悸。お腹の底から響いてくる氷の予感。
「智之くんね。最近誰か知れないけど好きなんだってさ」
「そんな――!!」
がたんっ!
教師の動きが止まった。ついでに言えば教室中の生徒の動きも。
夏目漱石を論じていた教諭は自分の肩を揉みながら口を開く。
「あー……小田原」
「……はい……」
「うん、別に遅刻とかはいい。誰にでも間違いはある」
「……」
「でもいきなりそんなーとか言われたら……なあ?」
「あの……すみません……」
「ん」
そう言って丸めた教科書で後ろの黒板を指す。
「立ってろ」
クラス中の笑い声に包まれながら、彼女は後ろの小型黒板のもとへ歩く。
教師は笑いを収め、授業が再開したが彼女は一つの言葉に縛られていた。
――智之くんね。最近誰か知れないけど好きなんだってさ。
立ち尽くしながら小雪はじっと教室の右端に座る智之を見つめ……もとい、睨み続けていた。
好きな、子。私以外を智之は好いている。
それだけが彼女の頭を支配し、埋め尽くし、立ち尽くさせていた。好きな娘の中に自分が入ることなど、いつもの彼を見ていれば分かることだ。ありえない。
誰だろうか。このクラスの女子は、総じてなんとも可愛い子ばかりだ。
  智之の趣味は知ってる。尽くしてくれそうなのは……やはり聖子ちゃんだろうか。いや、家庭科で満点をとった裕子かもしれない。そういえば由香だって裁縫が得意だ。今日子もそうだ。可愛いだけなら里美もそうだし、景子だって、奈菜だって可愛い。
  綺麗な子だって居る。遥はモデルみたいに綺麗だし、夏祭りの明美にはびっくりした。和服美人なら友香と奈緒美だってそうだ。
  いつの間にか、手が顔に触れていた。なんだか頬が冷たい。
だめだよ小雪。皆友達じゃない。このクラスの子はいい子ばっかりだし……。
働いた理性。しかし、すぐに別の言葉が浮かぶ。
でもいい子だから好きになったんじゃない?
ハッとする。もうすでに頭の中が嫉妬モードにシフトチェンジされていた。このクラスの女の子全員を敵に回しかねない勢いだ。
智之の好きな子。
寒い。寒くて、寂しくて、冷たくて、怖くて、悲しくて、悔しい。
授業が何を言っているか、彼女にはすでにどうでもいいことになりつつあった。この間の中間はまずい点をとってしまったから、期末でいい点を取らなくてはクリスマスを学校で過ごしかねない。今年のクリスマスこそ智之に……智之に……。
急に目頭が熱くなってきた。きっと今年も言えずに過ごすのだろうかと……いや、一緒に過ごすことすら出来ないのかもしれない……。
彼女はただ、俯いて涙を力ずくでこらえることしか出来なかった。

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