2011年8月8日月曜日

翼をください #1

 そこに居る。
彼女はそう思って、階段の途中で立ち止まった。三階から上がってすぐの場所だ。
そこはちょうど死角になっていて、はっきりと断言出来なかったが、なんというか。「匂い」がする。彼女はそういう「匂い」は結構信頼しても良いと分かっていた。
じゃあ、一体何の匂いなのか。
いつもいつも後ろからやってきては驚かし、ドアを開けては驚かし、箱を開ければ驚かしてくる。そういうやつがいる居る匂いだ。
彼女は思う。冗談じゃない、と。
こちとらもう飽き飽きなのだ。いつまでたっても、そんな子供じみた事は。奴とは幼稚園からの腐れ縁で、中学校に入学した今でもそれは続いていて、さらにはその匂いもずっと続いていて。……とっくの昔に飽きると思っていたが、甘かった。
彼の悪ふざけと軽口。中学二年の割には大人びた性格に、子供みたいな私とのやりとり。一体何がし「――小雪!」
「っっっっ!!!」
上から黒い何かが落ちてきた。びっくりして声も出せないまま、彼女は固まってしまう。
四階へと続く階段から落ちてきた――もとい、降りてきた黒い何かは、学生服を着た一人の男子。
つまり、彼こそが“彼”だということだ。
冬の昼。毎度毎度のやり取りが今日も飽きずに繰り返されてゆく。
彼女の名前は小田原小雪。十三歳。
クラスメイトや近所の交友関係は、老若男女かまわず名前で呼び合う程至って潤滑。本人に自覚は無いが可愛いと有名。しかしそれは恋愛対象としてではなく端から見て、である。公園で遊ぶ子供たちを見て可愛いと思う事と同じだ。いやそれを本気で可愛いと、“そういう意味”で可愛いと表現する方々も居るようだが、出来れば漫画などで発散して欲しいところだ。
身長は142センチジャスト。体重は企業秘密との事。
趣味は天使グッズ収集、好物はドリア、嫌いな物は虫。特にとんぼ。座右の銘は「いつでも笑みを」。夢は童話作家といういまどきめずらしい純情派。
家族構成は両親と彼女だけ。本人は妹が欲しいと思っては居るが、何故だか最近それを言うのが恥ずかしい。保健体育の時間も妙な気分になってしまう。それと何か関係があるのか無いのか。彼女にはまだ分かっていない。
なお、本人は隠しているつもりだが周りにはバレバレの青春白書の一ページを持っている。
つまり。
恋をしている。
「そんなに怒んなってばさー小雪ぃ」
窓もなく、外に晒された渡り廊下を二人が歩いていく。
彼はその中二にしては高い長身をかがめ、謝りながら140センチあたりに顔を持っていった。
彼女はそっぽを向いた。
「こぉゆきぃ~」
少し寂しそうな声。しかし彼女は別に怒ってそうしたわけではない。ただ、顔が熱くなっていくのを感じたからだ。この秘め事を知られては、またこいつに馬鹿にされてしまう。そう思い、ただただ冷静を保とうとする。
ほてりを気にしながら、小雪はずんずんと歩いて行く。
二人の手には教科書とアルトリコーダー。これから音楽室で音楽の授業だ。
「なーってばぁ」
と、彼はぽんぽんと小雪の頭を軽く叩く。
二人の身長差故に出来る、彼なりのコミュニケーションの取り方。それが彼女にとってどれだけ屈辱的な事か、彼は知らない。
彼はいつだって彼女より優位に立っているのだ。この屈辱的な行為は、本人にその気は無くとも一つの現れ方だと彼女は思っている。それはこいつの顔を見ると高鳴ってしまう自分が居る限りそうあり続けるだろう。
彼女の足が止まった。
それについていた彼の足も止まる。きょとんと、彼は小雪を見た。
顔の温度を確認。大丈夫、熱くない。
  そして彼の顔を睨み上げてから、彼女はその重たくしていた口を開く。
「智之」
「ん?」
「ウザい」
彼女は限界を感じて瞬時に前を向いて歩きだした。
「でもさぁ、毎度毎度ひっかかる小雪も悪いと思うんだよな」
小雪について行きながら智之は言った。
「そんなわけないでしょ」
「いいや、そうだね」
「どうしてそんな事が言えるの」
「どうしても何も、反応する方が悪いだろ」
「そんなわけ、無い」
「あるね」
彼女は歩みを止めずに反論を繰り返す。冷静に勤めていたはずだが……どうやらその陰は白い息となって消えていったようだ。
「そんなわけ無い! だって、脅かす方が悪いんだもん!」
進む足はそのままに、小雪が大きく声をあげた。
  だが智之は表情も変えず。
「普通はな」
と小雪を見下ろす。
「じゃあ智之が悪いじゃない! なんで私が悪いのよ!」
「だって今日、これで五回目だぞ」
「う……」
「給食が終わってからだと二回目だ。用心しないのもどうかな?」
「だからって――」
「ほぉーら、苦しくなってきた」
くけけけ、と智之は笑った。
「うぅうるさい! 黙って歩け!」
小雪は顔を真っ赤にして歩みを速める。
「小雪ー」
智之の声。
しかし彼女は無視し続ける。
「小雪ってばー」
「無視無視無視無視無視……」
目を閉じ、ぶつぶつと小雪はつぶやき始める。これで彼の声は聞こえない。大丈夫。教室の場所は目を瞑っていてもたどりつける。
ふふんだ。ザマミロ。もうアンタが驚かそうとしても無駄なのよーだ! もうすぐこの屈辱ともおさらば。授業中にまでちょっかいかける勇気なんて、あいつにはないんだから。いつだって休み時間とか放課後とか先生の居ない時にしか声かけられない臆病者なのよ。なんて言ったかしら……そう、チキンって奴よ! コケッコッコーよ!
  別に声に出してはいない。だが、心の中ででも文句を言ってやらないと、口から溢れてしまう所だ。
  そうこうしているうちに、彼女は目的地たる教室の前に付く。前の授業である体育の着替えに遅れ、今回の移動教室にもギリギリの到着となってしまった。大丈夫。まだチャイムは鳴っていない。
  カラカラ、とドアを開ける。たくさんの生徒と、早めに来てビーカーを手に実験の準備を始めている教師。
後ろから、智之の笑い声が聞こえた。まだなんか文句が……。
  あれ?
先生が持っているのは……なんだって?
「小雪……そこ、生物室」
智之が少し離れた所からニヤニヤと笑っている。
「――――」
小雪はただただ体をこわばらせ、胸の教材一式(「中学の音楽2年」とアルトリコーダー)を抱きしめ、爆笑の渦たる生物室に背を向けた。

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