2011年8月11日木曜日

インスタントラバー 01.もらう


 それは五月。五月晴れの爽やかな日だった。
 大学キャンパスの三階にある、ゼミ用講義室のベランダで男が一人、タバコをふかしていた。パーマがかかったオシャレっぽい、下北沢辺りに居そうな男だ。春の空を見上げ、ぽけっとした顔で半開きの口から煙をはいている。
  彼の名は佐藤。今年で大学二年生に上がった、いかにもな大学生。
 講義されていたゼミはすでに終わり、メンバーは各々自由に過ごしていた。教室で仲間や教授とダベっていたり、早々に出て行ったり、こうしてタバコを吸っていたり。
「なんで俺、これ吸ってんだっけ……」
 あまりのヒマさに思わずひとりごと。メンソールの爽快さが鼻から抜けていく。
 そもそも、どうしてこのタバコを選んだんだっけか。ああ、そうだ。好きなあのバンドが歌っていたんだった。なんとなく吸ってみようって選んで、ちょっと大人の気分になったら、あとは本当に習慣になってたんだ。俺の肺は三ヶ月分くらい黒いんだろうな。
「これぞ腹黒、なんつって……」
  紫煙が漂う。
 この大学に入学して一年と二ヶ月。講義をやり過ごすおおかたの部分を覚え、単位を落とさないように、それでいて苦痛のないようにモラトリアムを楽しむ方法を覚え、そして活用していた。
 故郷を出て、夢に見た都会での一人暮らし。今までにない開放感も手伝い、知り合った悪友たちとおよそ考えつく限りの遊びを彼はクリアしてきた。
 唯一仲間たちと違うと言えば、彼らは大学もサボリ気味だったが、佐藤はそうしなかった点だ。なぜならば彼の一人暮らしが決定した時、
 
『必ず四年で卒業しなさい。でなければ殺す』
『選んだ講義は必ず合格しなさい。でなければ殺す』
『必ず卒業までに就職しなさい。でなければ殺す』
『出来ちゃった結婚は許さない。万が一の場合は殺さない。ちぎり取る』

 ……という恐ろしい四か条を守らされたからだ。
 しかも両親は内容を明記した覚書を作り、そこに実の息子のサインと拇印を取ったのだ。これには例の白い営業もびっくりだ。
 だが、その契約は有効に動いた。
 適度に頑張れば四か条は守れているし、このまま行けば三つ目と四つ目もなんとかなる気がしている。……むしろ、四つ目に限っては破る方法を教えて欲しいくらいだった。
「佐藤くん」
 ふと、声がかかる。
 振り返ってみると、一人の女子がベランダに出てくる所だった。先ほどまで講義室の中で教授と話していたうちの一人だ。
 少し茶色かかった、腰まで届く長いストレートヘアに、三白眼と小さな輪郭。そして、食ってるのか怪しげな程のスマートな体つき。服装もまたそれを強調するかの様な、ピッタリとした黄色いティーシャツに、同じく脚のラインが浮き出るようなローライズパンツ。背も高いのでスキニーな格好が非常に似合う、カッコいいオンナだ。
 肩にかけた大きいトートバッグを揺らし、彼女は「よっす」と声をかけた。佐藤もまた「よっす」と返し、タバコをもみ消す。
「今ええ?」
 少し低めの声は、チャキチャキの関西弁を語った。
「あ、うん。なんだった? 辻本さん」
「あんな、おもろいモンをめっけたから、佐藤くんにやろおもて」
 そう言って辻本は、持っていたバッグからカップを取り出した。端から観れば、大盛りのカップ麺に見えてしまうだろう。
「昼飯?」
「なに? 腹減っとるん?」
「いや、だって、カップラーメンじゃないの?」
「あはは、間違ってもしゃあないわな。でもちゃうねん」
 そう言って、辻本はカップを差し出した。
 
「インスタントラバー」

  キョトンとした顔で、佐藤はカップを見た。確かに蓋には「Instant Lover」とロゴがある。
「これが、あの?」
「せや。佐藤くんも男の子なんやから知っとるやろ。ってか、うちより詳しいやろ」
「いやまぁ知っては居るケドさ……」
 インスタントラバーとは、その名の通り、お湯を入れて三分待てば恋人が出来るという画期的なダッチワイフのようなモノだ。用途は様々だが、そういう使い方が一番一般的だ。
 どういう技術か知らないが、作る前に念じる事で好きな相手を作る事が出来る。身長や体重、スリーサイズといった体つきや顔までもが思うままで、しかも〝行為〟に反応するというのだ。信じられない技術だというのに、値段としては一万円を切るという、非常に安価なアイテムなのだ。
「つこうたこと、ある?」
 佐藤は首を振った。
「田中ん家で見たことはあるけど、使ったりとかはないな」
 佐藤は使ったことこそ無いが、見たことは一度だけだがあった。友人宅でだ。
 有効日時が二十四時間しかないので使わせてはもらえなかった(というよりも使いたくなかった)のだが、その変態的技術に 佐藤は「日本はここまで進化したのか」と驚いたものだ。
「え、なに、田中くん、つこてんの?」
「あー……。黙っといてあげて」
「ええで。佐藤くんからってのは黙っとく。今度オゴってな」
 結局喋るのだろう。佐藤は心の中で友達に手を合わせた。
「で、これやねんけど」
 ずい、とカップを差し出す。
「要る?」
「んー……」
「何迷っとんねん。いいからもろとけって。はいパース」
 そう言って、辻本はぐいっとカップを押し付けた。
 反射的に受け取る佐藤。
「つこたら感想聞かせてんか」
「……っていうか、なんで俺にくれるんだよ」
「いやそれがさー。えー……」
「なんにせよ、普通女から男にこういうのあげるか?」
「まぁええやん。つこてよ。返さんでええからね」
 どうやって返せと言うのだ。
「明日の二限、フランス語やろ? 休みらしいで」
「え、マジで?」
「ほんまほんま。そしたら佐藤くん、明日まるっとオフになるやん? ええ機会やし、それで」
 と佐藤の手にあるカップを指差し、
「溜まったの発散させてまえ。タバコなんて辞めてもぉてさ」
「溜まってねえよ」
「ほんま? タイミング悪かった? ごめんな?」
「タバコのことだよ!」
「んふふ? ほんとはアッチなんちゃうん~?」
「女が下ネタとか、やめとけって」
「あらあら、あんたそんなんやったら女子会とかあかんよ。意外と古臭いなぁ」
 三白眼を細くして、ニヤリと笑う。イタズラそうで、彼女に似合う笑い方だ。
 ほんなら、ばいなら。と辻本はカップを残して行ってしまった。
 佐藤は残されたカップーーインスタントラバーを眺めて、ため息をつく。
「そりゃ……使ってみたかったけど、さ」
 無意識に、もう一本タバコに火をつけた。

   ――――――――――◇――――――――――

 午後十一時。
 佐藤は酒に酔いながら、もらったカップを自宅で見ていた。ゴチャゴチャとしたこたつテーブルの上に、大きなカップが鎮座している。
 カップの蓋はまだ、空いていない。
 飲みかけの缶チューハイをどけ、すでに吸い殻でいっぱいになった灰皿を引き寄せてから、タバコに火を付ける。
 あのあと、辻本としゃべることは無かった。彼女はどこかへ行ってしまい、佐藤も彼女とは別の講義にでなければならなかった。
 そして帰りのコンビニで三つほどの缶チューハイとタバコを買い、家に帰ってはカップを見ながら呑んでいるのだ。
 不思議だった。
 どうして辻本が……女の子がこんなものを持っているのかということ、どうして俺にくれたのかということ。
  そしてもう一つ。どうしてこうして悩んでいるのか、ということ。
「どっかなんかあんのかな……」
 どこに何があるというのだろうか。それもまた不思議の一つ。
 それだけがずっと心に残っていて、そしてだからこそ不思議だった。こうした大人のオモチャ的なアイテムを人からもらうなど、そうそう出来るものでもない。
 タバコを押し消し、すっくと立ち上がる。
「……今日は、やめとこ。そうしよう。うん」
 残っていた缶チューハイを飲み干し、ベッドに倒れこんだ。スプリングが悪くなっているのか、ギ、と大きな音が響く。これでは夜中に派手な動きは出来ない。
「昼間なら誰も居ないよな……」
 ここは学生が中心に借りている賃貸マンションだ。昼間はみな、学校に出払っている。
 ……休講でもない限りは。
 心に不思議と、そしてどこかに期待を持ちながら、眠りについた。

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