2011年8月20日土曜日
翼をください #3
冬が好きだ。
小雪は寒くなってくるとそう思うようになる。
吐く息が白いのが何故か素敵で、じんじんと痛む指先が愛しい。他にも、ミント色の手袋やストライプのマフラーを、タンスからひっぱり出す時なんて、顔がにやけてしまうほどだ。
だから、天使が降りてきそうな冬が好きだった。小雪はそう思っている。
無論、それらの理由もあるのだが、本当の理由は冬になるとなかなか布団から出てこない智之を起こしに行けるからなのだ。
夏だとこうはいかない。あいつは夏が大好きだから、いつだって先に学校へ行ってしまう。
小雪は今、ベッドの前にいる。
目の前にはモゾモゾと動く布団の固まり。枕側には髪の毛が見え、白いパイナップルみたいにふくらんでいる。起こしたことは起こしたのだが、なかなか布団の中から出てこないのだ。
んふふと小雪が笑った。
そして、手術前の医者みたいな面持ちで布団をひっつかんだ。にぃっと笑った口のまま息を吸う。
これこそ対布団篭城最終奥義。
「おっきろー!」
「うわああぁぁぁぁぁぁ!」
ガバッと布団を取り上げる。
中には寝巻き姿の智之が小さくなっていた。
「てんめえ……っ! 小雪ぃ! 寒いだろーが!」
「さっさと起きない方が悪いっ! 時計を見なさいよ。もう八時なのよ?」
毎朝持ち主さえ知らないうちに止められる目覚まし時計は、すでに七時五十八分を指していた。
指差された時計を見て、智之は動きを止める。
「……密かにやばくない?」
硬直もそのままに、寝巻きのまま汗をたらす。
少女はこめかみに青筋を浮かべながら言い放った。
「だと思うんなら、さっさとしなさい!」
ばこっと近くにあったティッシュ箱こそ、未だに寝ぼけ眼の智之の目覚ましになった。
「だーから言ったじゃない!」
「うるせー! 俺だってこうなりたくてこうなったわけじゃない!」
白い街を走る影二つ。……言うまでも無く小雪と智之である。結局間に合いそうもないのでこうやって走る事になってしまったのだ。
しかし……ホームルームは八時半から。どう考えても間に合わない。準備だかトイレとかで十五分たっている上、ここは商店街だから……走っても二十分はかかる。
「おいこら小みに」
「なによ!?」
「なぁに笑ってんだ、気色悪い」
「うっさい!」
こっちの気持ちも知らないで!
そのうち足が悲鳴を上げ始めた。智之はともかく、小雪は朝から走って大丈夫なほど体力はないのだ。
「……っふ……っふ……」
「はぁはぁ……はぁ……もう駄目……」
「走れ小みに!」
「みにって言うな!」
しかし二人も若いとはいえ疲れは来る。最初に小雪が、そしてもうしばらくしてから智之が。疾走から競歩……競歩から散歩に変わるまでそう時間はかからなかった。
そのうちゆっくりと歩いていくようになる。息が整い、二人に風景を見る余裕が生まれた。
「…………」
ふと、智之がこちらを見ていることに気付いた。
「なによ」
「お前未だに天使なんか好きなのかー? ダッセ」
彼は小雪の鞄についた天使のキーホルダーを見ていたのだ。
「うっさいわよ。アンタなんかに天使の素晴らしさなんて、分かるもんですか」
「あーあー分かんねえな。第一、天使って神様のパシリだろー? 余計ダサいじゃん」
「うっさい!」
小雪の反応に智之はフフンと鼻で笑いながら、続けた。
「知ってるか? 人間に翼があっても、そのための筋肉がないから飛べやしないらしいぜ? ましてや天使だなんてな。非科学的もいいとこだぜ」
かっかっか、と笑う智之。しかし小雪はため息をつき、軽蔑した目で智之を見た。
「……あんだよ?」
「ふん。ガキよねー智之は」
「はぁ?」
「翼のすばらしさを分からないようじゃ、まだまだだって言ってんのよ」
「わかるわきゃねーだろが。飛べなきゃしょーがねーだろ?」
「飛べるのも飛べないのも関係ないのよ。私は、飛べなくても翼が欲しいの!」
「……そんなに欲しいか? 翼」
「うん……大切なものを包み込めたらって、いつも思う」
「しょーじょ趣味」
「うっさい!」
二人はいつもどおり、笑いながら怒りながら歩いていく。
そろそろ商店街の店もシャッターを開け始める時間だ。顔見知りの店長が二人にあいさつをしてきた。
「なんだ、小雪ちゃんに智之くん、遅刻か?」
「そうなのよ、このバカユキがいつまでたっても起きないからさー」
「黙れ小みに!」
「なによー!」
「あははははは、まあ気をつけなさいな。たまにはいいかも知れないけどね?」
「そうかなぁ……?」
「いいっていいって。そのうち服も変えずに同伴登校って時も来るんでしょ?」
「……なにいってんのよ!」
「あははははははははは」
八百屋の店長は笑いながら店の奥へ去っていった。そうだった、私たちは遅刻してたんだ……。今更気付いたのだが、何故か悪気はない。罪悪感もない。少しだけどきどきがある。学校を遅刻しながら、霜の降りた商店街を歩いていくことがこんなに楽しいことだなんて想像さえしなかった。
「…………違うかな」
ぽつりと呟く。
「あ?」
「なんでもないわよ」
そう、今は言うべきではない。
まだ今は、この暖かい冬を味わっていたかった。
なんとか学校についた頃にはすでに1時間目が始まっていた。ぼけぼけコンビとして国語教師にも伝わっていたため、多少の冷やかしと訓告……というにも小さすぎる訓告で二人は授業に参加する事が出来た。
鞄から次々と教科書やノートを取り出す。その動作がなんと楽しいことだろう。朝、智之とゆっくり歩いただけでここまでなんでもないことが楽しいのだ。
右隣に座っていた茜が声をかけてきた。
「なに鼻歌なんか歌っちゃってんのよ」
「え? 歌ってた? 私?」
ぽそぽそと先生にばれない程度に会話が続く。
「もう思いっきり。智之くんと遅刻できたのがそんなにうれしかった?」
「…………ん」
「はっきり言いなさいよ。もうみんな知ってんのよ?」
「……そうだろうとは思ってたけどさ。茜でしょ? しゃべったの」
「何を言いますか。可愛いユキちゃんを想ってる私がどうしてそんなことを?」
「友人の恋ほど面白いものはないって今月のリズムに書いてあった」
リズムとは彼女が愛読している少女漫画雑誌だ。
「マンガを受け売りにするのはどうかと思うわ」
「うるさいわね」
「それで? コクった?」
一気に顔が赤くなる。冷たい教室内で、彼女の顔面だけが夏になった。
「……そっかぁ。まだかぁ」
「ああああ茜には関係ないでしょっ?」
「あんたがさっさとコクんないと他の子に持ってかれちゃうわよー?」
ドキ。
「なにをバカな。そんな物好きいないでしょ?」
「何を言うか物好きめ」
一瞬、心臓がはねたが、なるほど、ただの冗談か。
「冗談はほどほどにしてよね。全く」
さて、授業授業、と前を見た小雪に、追ってくる言葉。
「冗談じゃないわよ」
ズキリ。
今までとは違う、冷えた動悸。お腹の底から響いてくる氷の予感。
「智之くんね。最近誰か知れないけど好きなんだってさ」
「そんな――!!」
がたんっ!
教師の動きが止まった。ついでに言えば教室中の生徒の動きも。
夏目漱石を論じていた教諭は自分の肩を揉みながら口を開く。
「あー……小田原」
「……はい……」
「うん、別に遅刻とかはいい。誰にでも間違いはある」
「……」
「でもいきなりそんなーとか言われたら……なあ?」
「あの……すみません……」
「ん」
そう言って丸めた教科書で後ろの黒板を指す。
「立ってろ」
クラス中の笑い声に包まれながら、彼女は後ろの小型黒板のもとへ歩く。
教師は笑いを収め、授業が再開したが彼女は一つの言葉に縛られていた。
――智之くんね。最近誰か知れないけど好きなんだってさ。
立ち尽くしながら小雪はじっと教室の右端に座る智之を見つめ……もとい、睨み続けていた。
好きな、子。私以外を智之は好いている。
それだけが彼女の頭を支配し、埋め尽くし、立ち尽くさせていた。好きな娘の中に自分が入ることなど、いつもの彼を見ていれば分かることだ。ありえない。
誰だろうか。このクラスの女子は、総じてなんとも可愛い子ばかりだ。
智之の趣味は知ってる。尽くしてくれそうなのは……やはり聖子ちゃんだろうか。いや、家庭科で満点をとった裕子かもしれない。そういえば由香だって裁縫が得意だ。今日子もそうだ。可愛いだけなら里美もそうだし、景子だって、奈菜だって可愛い。
綺麗な子だって居る。遥はモデルみたいに綺麗だし、夏祭りの明美にはびっくりした。和服美人なら友香と奈緒美だってそうだ。
いつの間にか、手が顔に触れていた。なんだか頬が冷たい。
だめだよ小雪。皆友達じゃない。このクラスの子はいい子ばっかりだし……。
働いた理性。しかし、すぐに別の言葉が浮かぶ。
でもいい子だから好きになったんじゃない?
ハッとする。もうすでに頭の中が嫉妬モードにシフトチェンジされていた。このクラスの女の子全員を敵に回しかねない勢いだ。
智之の好きな子。
寒い。寒くて、寂しくて、冷たくて、怖くて、悲しくて、悔しい。
授業が何を言っているか、彼女にはすでにどうでもいいことになりつつあった。この間の中間はまずい点をとってしまったから、期末でいい点を取らなくてはクリスマスを学校で過ごしかねない。今年のクリスマスこそ智之に……智之に……。
急に目頭が熱くなってきた。きっと今年も言えずに過ごすのだろうかと……いや、一緒に過ごすことすら出来ないのかもしれない……。
彼女はただ、俯いて涙を力ずくでこらえることしか出来なかった。
2011年8月12日金曜日
翼をください #2
「そりゃアンタが悪いわ、ユキちゃん」
放課後。
小雪は掃除をしながら友人の茜と先の事件について語り合っていた。
茜は中学に入ってから出来た、小雪の友達だ。サバサバした性格からか、小雪からはとっつきにくいかと思っていたが、今では互いに親友と思っているほど、特別に仲のいい友達だ。
「なんでいっつも茜は智之の肩持つかなー。どう考えたってあれは智之が仕組んだ罠じゃない」
「私は公平に物を見てるだけ。教室間違えたのはどー考えてもアンタのせいよ」
クセの付いた箒を振るいながら茜は正論を放つ。
小雪は口を尖らせながら続けた。
「だって、あの時智之が話しかけてこなければ、私だって教室を確認したわ。うっとうしい事を言い続けて、私の目を瞑らせる事が目的だったのよ」
「どうかしら」
「なんでよー!」
ついつい叫んでしまう小雪。
しかし茜は冷静だ。……というより、こういう事態に慣れているようだ。
「良く考えなさい小雪」
「考えてるわ」
「もうちょっと冷静に。分析って奴をやってみなさい」
「う、……うん」
茜の言葉に少し腰を引く小雪。
「まず一つ。教室を間違えたのはなんで?」
段階を置いて事態を解決に結ぼうとする。小雪が苦手な分野だ。なんとか与えられた質問の回答を組み立てていく。
「私が目を瞑ってた……から」
「それはなんで?」
「智之の言う事に腹立てた……から」
「どうして腹を立てたのかしら?」
「智之が私を注意不足の間抜けだって……言うから」
「なんでそう言われたの?」
答えに詰まる小雪。
「……私が何回も智之に驚くから」
「どうして驚いてたのかしら」
「あいつが驚かすからよ」
多少無理矢理だが、なんとか智之を悪役にするために言葉を選ぶ。よし、と心の中でガッツポーズ。
「今日驚かされたのは何回?」
「……その時で五回目……」
「今までは? 昨日は? 覚えてる限りでどれくらい?」
ニヤニヤと笑う茜。いつもこいつはこの話になると急にイジワルになる。駄目だ。このままじゃあ駄目だ。こいつは今、楽しんでいる。
ガッツポーズは消えて一気にアラートが鳴りたて始める。ワーニンワーニン。敵はもう目の前まで来ている。
だが、茜相手に嘘をついても仕方がないことを小雪は知っていた。
「……数え切れない……ぐらい……」
結局それが決定打となった。
「あんたの負け」
「なんでよー!」
振り出しに戻る。
「アンタの不注意よ。だいたいアンタ、智之くんに惚れてるんでしょ」
じとり、と少し意地悪な目でみる茜。
それを聞いた小雪は耳まで赤くして叫んだ。
「茜! 声おっきい!」
「そうなんでしょ?」
唯一、秘め事を打ち明けた人間は手厳しかった。小雪の秘密主義を無視して続ける。
「……うん」
ぽそり。
「じゃあかまってもらえて万々歳じゃない」
「ち、違うよ……」
「そんな訳ないわよ。うれしいって顔に書いてる」
「嘘よ! 絶対信じない!」
「まったく……アンタは何言っても納得しないんだから」
ため息をつく茜。
「そんなことないわ。私は真実を認める女なんだから」
「何よそれ……。じゃあアンタが間抜けだったって事、認めなさいな」
「なんでよー!」
再び小雪の叫びがこだまする。
「……ところで、本人はどこ行った?」
茜がふと思い出した様に誰にともなく聞いた。
すると、たまたま隣でちり取りを持った男子がそれに応えた。
「確かごみ捨てに行ったハズ。そろそろ帰ってくるんじゃないか?」
「もう帰ってこなくていいの!」
小雪が怒鳴りながら掃除道具を収めたロッカーへと進んでいく。すでに皆片付けており、道具を持っているのは小雪だけだ。顔を真っ赤にしながら箒を戻しにロッカーを開ける。
がちゃり。
「よーっぽど俺の事が嫌いみたいだな」
「―――ッ」
その狭い空間に彼は居た。
「智之くん!?」
ざわめく教室。凍ったままの小雪。呆れ顔の茜。
結局これで6回目も成功した事になる。
2011年8月8日月曜日
翼をください #1
そこに居る。
彼女はそう思って、階段の途中で立ち止まった。三階から上がってすぐの場所だ。
そこはちょうど死角になっていて、はっきりと断言出来なかったが、なんというか。「匂い」がする。彼女はそういう「匂い」は結構信頼しても良いと分かっていた。
じゃあ、一体何の匂いなのか。
いつもいつも後ろからやってきては驚かし、ドアを開けては驚かし、箱を開ければ驚かしてくる。そういうやつがいる居る匂いだ。
彼女は思う。冗談じゃない、と。
こちとらもう飽き飽きなのだ。いつまでたっても、そんな子供じみた事は。奴とは幼稚園からの腐れ縁で、中学校に入学した今でもそれは続いていて、さらにはその匂いもずっと続いていて。……とっくの昔に飽きると思っていたが、甘かった。
彼の悪ふざけと軽口。中学二年の割には大人びた性格に、子供みたいな私とのやりとり。一体何がし「――小雪!」
「っっっっ!!!」
上から黒い何かが落ちてきた。びっくりして声も出せないまま、彼女は固まってしまう。
四階へと続く階段から落ちてきた――もとい、降りてきた黒い何かは、学生服を着た一人の男子。
つまり、彼こそが“彼”だということだ。
冬の昼。毎度毎度のやり取りが今日も飽きずに繰り返されてゆく。
彼女の名前は小田原小雪。十三歳。
クラスメイトや近所の交友関係は、老若男女かまわず名前で呼び合う程至って潤滑。本人に自覚は無いが可愛いと有名。しかしそれは恋愛対象としてではなく端から見て、である。公園で遊ぶ子供たちを見て可愛いと思う事と同じだ。いやそれを本気で可愛いと、“そういう意味”で可愛いと表現する方々も居るようだが、出来れば漫画などで発散して欲しいところだ。
身長は142センチジャスト。体重は企業秘密との事。
趣味は天使グッズ収集、好物はドリア、嫌いな物は虫。特にとんぼ。座右の銘は「いつでも笑みを」。夢は童話作家といういまどきめずらしい純情派。
家族構成は両親と彼女だけ。本人は妹が欲しいと思っては居るが、何故だか最近それを言うのが恥ずかしい。保健体育の時間も妙な気分になってしまう。それと何か関係があるのか無いのか。彼女にはまだ分かっていない。
なお、本人は隠しているつもりだが周りにはバレバレの青春白書の一ページを持っている。
つまり。
恋をしている。
「そんなに怒んなってばさー小雪ぃ」
窓もなく、外に晒された渡り廊下を二人が歩いていく。
彼はその中二にしては高い長身をかがめ、謝りながら140センチあたりに顔を持っていった。
彼女はそっぽを向いた。
「こぉゆきぃ~」
少し寂しそうな声。しかし彼女は別に怒ってそうしたわけではない。ただ、顔が熱くなっていくのを感じたからだ。この秘め事を知られては、またこいつに馬鹿にされてしまう。そう思い、ただただ冷静を保とうとする。
ほてりを気にしながら、小雪はずんずんと歩いて行く。
二人の手には教科書とアルトリコーダー。これから音楽室で音楽の授業だ。
「なーってばぁ」
と、彼はぽんぽんと小雪の頭を軽く叩く。
二人の身長差故に出来る、彼なりのコミュニケーションの取り方。それが彼女にとってどれだけ屈辱的な事か、彼は知らない。
彼はいつだって彼女より優位に立っているのだ。この屈辱的な行為は、本人にその気は無くとも一つの現れ方だと彼女は思っている。それはこいつの顔を見ると高鳴ってしまう自分が居る限りそうあり続けるだろう。
彼女の足が止まった。
それについていた彼の足も止まる。きょとんと、彼は小雪を見た。
顔の温度を確認。大丈夫、熱くない。
そして彼の顔を睨み上げてから、彼女はその重たくしていた口を開く。
「智之」
「ん?」
「ウザい」
彼女は限界を感じて瞬時に前を向いて歩きだした。
「でもさぁ、毎度毎度ひっかかる小雪も悪いと思うんだよな」
小雪について行きながら智之は言った。
「そんなわけないでしょ」
「いいや、そうだね」
「どうしてそんな事が言えるの」
「どうしても何も、反応する方が悪いだろ」
「そんなわけ、無い」
「あるね」
彼女は歩みを止めずに反論を繰り返す。冷静に勤めていたはずだが……どうやらその陰は白い息となって消えていったようだ。
「そんなわけ無い! だって、脅かす方が悪いんだもん!」
進む足はそのままに、小雪が大きく声をあげた。
だが智之は表情も変えず。
「普通はな」
と小雪を見下ろす。
「じゃあ智之が悪いじゃない! なんで私が悪いのよ!」
「だって今日、これで五回目だぞ」
「う……」
「給食が終わってからだと二回目だ。用心しないのもどうかな?」
「だからって――」
「ほぉーら、苦しくなってきた」
くけけけ、と智之は笑った。
「うぅうるさい! 黙って歩け!」
小雪は顔を真っ赤にして歩みを速める。
「小雪ー」
智之の声。
しかし彼女は無視し続ける。
「小雪ってばー」
「無視無視無視無視無視……」
目を閉じ、ぶつぶつと小雪はつぶやき始める。これで彼の声は聞こえない。大丈夫。教室の場所は目を瞑っていてもたどりつける。
ふふんだ。ザマミロ。もうアンタが驚かそうとしても無駄なのよーだ! もうすぐこの屈辱ともおさらば。授業中にまでちょっかいかける勇気なんて、あいつにはないんだから。いつだって休み時間とか放課後とか先生の居ない時にしか声かけられない臆病者なのよ。なんて言ったかしら……そう、チキンって奴よ! コケッコッコーよ!
別に声に出してはいない。だが、心の中ででも文句を言ってやらないと、口から溢れてしまう所だ。
そうこうしているうちに、彼女は目的地たる教室の前に付く。前の授業である体育の着替えに遅れ、今回の移動教室にもギリギリの到着となってしまった。大丈夫。まだチャイムは鳴っていない。
カラカラ、とドアを開ける。たくさんの生徒と、早めに来てビーカーを手に実験の準備を始めている教師。
後ろから、智之の笑い声が聞こえた。まだなんか文句が……。
あれ?
先生が持っているのは……なんだって?
「小雪……そこ、生物室」
智之が少し離れた所からニヤニヤと笑っている。
「――――」
小雪はただただ体をこわばらせ、胸の教材一式(「中学の音楽2年」とアルトリコーダー)を抱きしめ、爆笑の渦たる生物室に背を向けた。
彼女はそう思って、階段の途中で立ち止まった。三階から上がってすぐの場所だ。
そこはちょうど死角になっていて、はっきりと断言出来なかったが、なんというか。「匂い」がする。彼女はそういう「匂い」は結構信頼しても良いと分かっていた。
じゃあ、一体何の匂いなのか。
いつもいつも後ろからやってきては驚かし、ドアを開けては驚かし、箱を開ければ驚かしてくる。そういうやつがいる居る匂いだ。
彼女は思う。冗談じゃない、と。
こちとらもう飽き飽きなのだ。いつまでたっても、そんな子供じみた事は。奴とは幼稚園からの腐れ縁で、中学校に入学した今でもそれは続いていて、さらにはその匂いもずっと続いていて。……とっくの昔に飽きると思っていたが、甘かった。
彼の悪ふざけと軽口。中学二年の割には大人びた性格に、子供みたいな私とのやりとり。一体何がし「――小雪!」
「っっっっ!!!」
上から黒い何かが落ちてきた。びっくりして声も出せないまま、彼女は固まってしまう。
四階へと続く階段から落ちてきた――もとい、降りてきた黒い何かは、学生服を着た一人の男子。
つまり、彼こそが“彼”だということだ。
冬の昼。毎度毎度のやり取りが今日も飽きずに繰り返されてゆく。
彼女の名前は小田原小雪。十三歳。
クラスメイトや近所の交友関係は、老若男女かまわず名前で呼び合う程至って潤滑。本人に自覚は無いが可愛いと有名。しかしそれは恋愛対象としてではなく端から見て、である。公園で遊ぶ子供たちを見て可愛いと思う事と同じだ。いやそれを本気で可愛いと、“そういう意味”で可愛いと表現する方々も居るようだが、出来れば漫画などで発散して欲しいところだ。
身長は142センチジャスト。体重は企業秘密との事。
趣味は天使グッズ収集、好物はドリア、嫌いな物は虫。特にとんぼ。座右の銘は「いつでも笑みを」。夢は童話作家といういまどきめずらしい純情派。
家族構成は両親と彼女だけ。本人は妹が欲しいと思っては居るが、何故だか最近それを言うのが恥ずかしい。保健体育の時間も妙な気分になってしまう。それと何か関係があるのか無いのか。彼女にはまだ分かっていない。
なお、本人は隠しているつもりだが周りにはバレバレの青春白書の一ページを持っている。
つまり。
恋をしている。
「そんなに怒んなってばさー小雪ぃ」
窓もなく、外に晒された渡り廊下を二人が歩いていく。
彼はその中二にしては高い長身をかがめ、謝りながら140センチあたりに顔を持っていった。
彼女はそっぽを向いた。
「こぉゆきぃ~」
少し寂しそうな声。しかし彼女は別に怒ってそうしたわけではない。ただ、顔が熱くなっていくのを感じたからだ。この秘め事を知られては、またこいつに馬鹿にされてしまう。そう思い、ただただ冷静を保とうとする。
ほてりを気にしながら、小雪はずんずんと歩いて行く。
二人の手には教科書とアルトリコーダー。これから音楽室で音楽の授業だ。
「なーってばぁ」
と、彼はぽんぽんと小雪の頭を軽く叩く。
二人の身長差故に出来る、彼なりのコミュニケーションの取り方。それが彼女にとってどれだけ屈辱的な事か、彼は知らない。
彼はいつだって彼女より優位に立っているのだ。この屈辱的な行為は、本人にその気は無くとも一つの現れ方だと彼女は思っている。それはこいつの顔を見ると高鳴ってしまう自分が居る限りそうあり続けるだろう。
彼女の足が止まった。
それについていた彼の足も止まる。きょとんと、彼は小雪を見た。
顔の温度を確認。大丈夫、熱くない。
そして彼の顔を睨み上げてから、彼女はその重たくしていた口を開く。
「智之」
「ん?」
「ウザい」
彼女は限界を感じて瞬時に前を向いて歩きだした。
「でもさぁ、毎度毎度ひっかかる小雪も悪いと思うんだよな」
小雪について行きながら智之は言った。
「そんなわけないでしょ」
「いいや、そうだね」
「どうしてそんな事が言えるの」
「どうしても何も、反応する方が悪いだろ」
「そんなわけ、無い」
「あるね」
彼女は歩みを止めずに反論を繰り返す。冷静に勤めていたはずだが……どうやらその陰は白い息となって消えていったようだ。
「そんなわけ無い! だって、脅かす方が悪いんだもん!」
進む足はそのままに、小雪が大きく声をあげた。
だが智之は表情も変えず。
「普通はな」
と小雪を見下ろす。
「じゃあ智之が悪いじゃない! なんで私が悪いのよ!」
「だって今日、これで五回目だぞ」
「う……」
「給食が終わってからだと二回目だ。用心しないのもどうかな?」
「だからって――」
「ほぉーら、苦しくなってきた」
くけけけ、と智之は笑った。
「うぅうるさい! 黙って歩け!」
小雪は顔を真っ赤にして歩みを速める。
「小雪ー」
智之の声。
しかし彼女は無視し続ける。
「小雪ってばー」
「無視無視無視無視無視……」
目を閉じ、ぶつぶつと小雪はつぶやき始める。これで彼の声は聞こえない。大丈夫。教室の場所は目を瞑っていてもたどりつける。
ふふんだ。ザマミロ。もうアンタが驚かそうとしても無駄なのよーだ! もうすぐこの屈辱ともおさらば。授業中にまでちょっかいかける勇気なんて、あいつにはないんだから。いつだって休み時間とか放課後とか先生の居ない時にしか声かけられない臆病者なのよ。なんて言ったかしら……そう、チキンって奴よ! コケッコッコーよ!
別に声に出してはいない。だが、心の中ででも文句を言ってやらないと、口から溢れてしまう所だ。
そうこうしているうちに、彼女は目的地たる教室の前に付く。前の授業である体育の着替えに遅れ、今回の移動教室にもギリギリの到着となってしまった。大丈夫。まだチャイムは鳴っていない。
カラカラ、とドアを開ける。たくさんの生徒と、早めに来てビーカーを手に実験の準備を始めている教師。
後ろから、智之の笑い声が聞こえた。まだなんか文句が……。
あれ?
先生が持っているのは……なんだって?
「小雪……そこ、生物室」
智之が少し離れた所からニヤニヤと笑っている。
「――――」
小雪はただただ体をこわばらせ、胸の教材一式(「中学の音楽2年」とアルトリコーダー)を抱きしめ、爆笑の渦たる生物室に背を向けた。
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